犬をつかむ

用事が立て込むと焦る。
というわけで、私はとある風光明媚な公園近くの住宅地を目的地へ急いでいた。
これが終ったら資料を借りにいって、そのあと職場に戻ってあれを送って、そのあと納品のヒトが来る……。お昼も食べてないよ。
急いでいても、目に入るものは目に入る。とある家の玄関に、野球帽を被った男のヒトがしゃがみこんでいる、周りには二頭のバセット・ハウンド。一頭は普通のトライカラー、もう一頭はビーグルで言う「レモン」みたいな薄い色で、でかい。トントンの二倍くらいありそうな気がする。のっそりとした雰囲気も手伝って、体高の低いジャージー牛といった感じでかなりかわいい。


「困っちゃったなあ、この子たち庭から出てきちゃって……。ここのお家留守なんですよ」と男のヒトは呻くようにつぶやいた。よくみると、のそのそと庭から脱走しようとしている首輪もつけていないバセットたちを、野球帽氏はしゃがんで必死でつかまえているのだった。
お宅のぐるりを囲んだ庭の端には、よくホームセンターで売っている木製の格子の柵が置いてあるだけで、両端をワイヤーで固定しているわけでもないので、頼りないにもほどがある。バセットたちの鼻面でポーンてなもんである。しかも、面した道は車がよく通り、危ない。
玄関先にランブルリードだけが落ちていたので、「こ、これで縛ったらどうでしょう?」
ととりあえず提案してみた。
「首輪がないし、2頭いるし……、これから××園に行かれるんですよね?」
「は、はい」(厳密にいうと違うけど)
「僕近所なんですよ。ここは僕がなんとかしますから、お出かけください」
「は、はい」
後ろ髪を引かれながら私は目的地に急いだ。


用事には想定外の時間がかかり、私はさらに焦りまくって元来た道を戻っていた。
直前の一件は忘れていたのに、まさに目が点になるような光景のせいで、一気に一時間前の出来事にひきもどされた。
牛が放たれている!。
道の真ん中にでかいほうのバセットがのそのそ歩いており、背後に止まってクラクションを鳴らす車と観光バスが見える。
鞄を道の脇に投げ捨て、ターミネーターのように走った。
牛バセは全身のシワをたぷたぷさせながら嬉しそうにこっちに向かってくる。かと思えば、散歩をしている老人に、飛びついたりしている(伸び上がるとますますでかい)。
ばかっ!。牛バセ(♂)の首の皮をつかんで、例の留守宅の前にとりあえず押し込む(おかげで腰痛復活)。家の前には、もう一頭の小さい方(こっちが♀だった)がやはりのそのそと脱走しようとしている。
私は二頭の首の皮をつかんで、声にならない叫び声を上げていた。「ダレカタスケテー」。
こうなったら、私の鞄のストラップを外して一頭を縛り、編み上げブーツの紐でもう一頭を縛って門扉にくくりつけるか? 結構首周りも太いがそんなことはできるのだろうか?。私は、肩掛け鞄のストラップと靴紐がない状態で次の目的地に行くんだろうか?……人間は焦るととんでもないことを考える。
「あー!さっきの方だ!。あれー、ちゃんとしまったのにまた脱走したんですか?」さっきの野球帽氏が、自分のコーギーを連れて通りかかった。
たしかに、問題の頼りない柵の両端には、植木鉢だのホース巻き取り器だのが置かれ、野球帽氏の努力の形跡は明らかだった。でもバセたちは、むちむちと太っているくせに、軟体動物のように物と物との小さな隙間を通り抜けることができるようだった。
野球帽氏が、とりあえず自分の犬を門扉につなごうとしている間も、私がつかんでいるバセ二匹は、わが家の気まぐれなリクガメのように、ゆっくりと、だが強固に前進しようとする。私の顔を見たら、しっぽを千切れんばかりに振ったくせに、何考えてんだか分からないこと、山のごとし!。
皮をつかんでも、ずるずると引っ張られていくこの感覚は何に似ているんだろう。そう、濁流に呑まれようとする土嚢をつかむ感覚?(そんなことしたことないけど)。
野球帽氏は、例の柵をチェックしに行ってしまった。「タスケテー」とまたしても心の中で悲鳴を上げていると、公園見物帰りのお母さんたちの群れが通りかかる。
「あら〜、すてきなワンちゃんねー 何て種類なの?」
「この子たちはバセットハウンド、あ、この子はウェルシュコーギー
「両方とも足が短いのねー」
「あー、なんか見たことあるわね」
「ハッシュパピーの犬ですよ」
(あー、それどころじゃないんですよー……。つか交流するな、私)。
握力の限界までシワシワ犬たちの首の皮をつかんでいる間に、野球帽氏は前よりか頑丈そうなバリケードをこしらえ、「おっとっと、重いなー。いったい何キロあるんだよ」と文句をいいながら、バセたちを抱えて庭にしまってくれた。
あー、一件落着。でも時間がー。と思ったときに、玄関のドアに貼られた「I Love Basset-hound」というよくあるシールがふと眼に入った。発作的に、鞄から極太油性マジックを出して「ウソだ!。オマエはバセットを愛していない」と怪文書書体として有名な汚い字で書きなぐりたかったけど、やめておいた。
飼い主さん帰ってくるまで脱走してませんように。
えーと、何が言いたかったかというと、バセットハウンドってほんと可愛いね。



巴里ちゃんは水曜日に天国に行きました。
ブル美さんは、食餌が摂れない巴里ちゃんに栄養剤を2度も打って苦しみを長引かせたことを後悔し、ちょっと凹んでいたのですが、何もしなければしないで後悔したと思うのです。
温かい部屋で静かに息をひきとることができたのだから、迷い猫(捨て猫?)の最期としては、そう悪いものではなかったよね、と言ったら巴里爾に怒られるでしょうか。